旧跡を訪ねる★ヴィッラ·アドリアーナ第14代

よりラテン語に近いだけあってスペイン語よりも遥かに複雑なので

これが世にいう「パルチザン」である。地上の「異郷」を感じさせるこの大草原で、私の脳裏にはさまざまな思い出が去来した。冒険心をもって旅をすれば、生涯心に残る大切な思い出の一ページになるのだと「カンポ·インペラトーレ」は教えてくれた。今もスキーや登山、ツーリング客が利用するホテルが歴史の生き証人として佇んでいるロッカ·カラッショ『薔薇の名前』のロケ地多くの映画監督がアブルッツォ州の町を映画のロケーションとして選んでいたことを知ったのは、ドイツ人医師のペトラと11011年の夏に会ったときであった。アブルッツォの大地に力があることをイタリア通の監督たちは知っているのよ」日本とアブルッツォの大地震やその後の日本での復興状況などについて、夜通し語り合っていたときに、彼女が目を輝かせて教えてくれた。

イタリア全土に皇帝派と法王派という二つの派閥を作ることになるイタリアのベストセラー作家ウンベルト.エーコの作品を映画化したr薔薇の名前』は、シエナのピッコロ-ミニ家とフィレンツェのメディチ家が所有した城砦ロッカ·カラッショが舞台の一つだったという。アブルッツォの代表的な景勝地私はショーン·コネリーの名演技を思い出さずにはいられなかった。このロッカ·カラッショこそ、アブルッツォのガイドブックの表紙を飾るのに選ばれる被写体なのだ。映画好きのペトラはリチャード·ドナー監督の『レディホーク』がロッカ·カラッショを舞台にしたと知ると、これでアブルッツォは有名になると思ったようだ。同じラクイラ県にあるカステル·デル·モンテという町は、あのジョージ·クルーニー主演の『ラスト·ターゲット』の舞台であった。

 

チョイスできます

イタリアではアパートの壁や鉄柵に藤を這わせることが多く、日本のような藤棚を作る場合もあるが、ある日一斉にこれらの藤が薄紫の花を咲かせる様子は見事である。絵心があれば、是非とも絵にしたい光景だ。ミラノの夏の風物詩などというとロマンチックに思えるかも知れないが、真夏のミラノは前にも書いた通り、住人の半分は海や山に出払って町は閑散とし、殺風景なこと甚だしい。こんな中で唯一風物詩と呼べるのは、町のあちこちに夕方になると登場するスイカバーである我々は勝手にスイカバーと呼んでいたが、本当は何と言うのか知らない)。要は産地直送のスイカやメロンを積んだ小型トラックが、あちこちの交差点やロータリーの脇に乗り上げて、通行人相手に直売したり、その場で食べさせる屋台のようなものだ。ミラノを支配していた直後と言うことになります夜、暗くなってから、スイカバーの側を通り過ぎると、人々が明かりに照らされて食べる西瓜が何ともうまそうに見えるのだが、実際に食べに行くとこれが結構大変。暑いのと車の排気ガスは多少我慢できるにしても、蚊がすごいのだ。蚊を気にしながらでは、折角のスイカのうまさもどこへやらであるとにかくミラノの夏は蚊に悩まされる。英国やドイツでは真夏でも蚊などにお目にかかることはなかったので同じヨーロッパで蚊がこんなにいるとは想像だにしていなかったが、やはりアルプスの北と南では相当な違いがある。ミラノに来たのは四月だったが、夏になると蚊が出るとの話を聞いてエッと思った記憶がある。

    1. ナポリまで行ってひき返してきたとき
    1. ミラノ市内の地下鉄やトラムなどもストをやるがラクイラ県にあったことは
    1. イタリアはしばらくフランスの配下となる

イタリア語は日本語同様

こうした態度を見せる者は日本人からは気が短いと揶揄されるのです。人に対しては非常に礼儀正しいです。彼らは受けた親切に応分の礼を返す習慣ももっています」ヴァリニャーノは外国人の宣教師や修道士に日本の風習に合わせて活動しなければ、ト教を布教することはできないと力説した。キリスそして、ついに辿り着いた彼の結論は、日本初の外交使節団である「天正少年使節団」を計画し、少年四人をヨーロッパに送り込み、酉洋の文明を彼らにじかに見せることであった。れによって、少年たちにキリスト教の偉大さを痛感させ、日本での布教に役立てようと考えたのだ。
そこでポンペイウスは巧妙な作戦を考えつくのでした

蕎麦粉に変わりはない筈だが

当時のヨーロッパは、「陽の沈むことなき」といわれた大帝国を築き上げたハプスブルク家のスペイン国王カルロス1世が活躍した時代で、暗黒の中世から近代へ移る過渡期でもあった。国家も宗教界も新しく生まれ変わろうとする動乱期だった。ルターの改革によって多くの国が法王庁に背を向け始めた時期に、カトリック諸国はいち早くアジアに目を向け、開拓したのであるアジアでのカトリック教会の勝利は、粘り強い精神を持ちあわせたヴァリニャーノがいたからといっても過言ではない。当然、イエズス会が成し遂げたことを、他の修道会、たとえばフランシスコ会も羨望の眼差しで見つめていた。一六00年に法王クレメンス八世はすべての修道会に日本での宣教活動を正式に認める宣言をすると、ヴァリニャーノが意図しなかった別なやり方で布教が始まってしまう。