イタリアで一九三0年代に平均時速二00キロという

あまりおすすめはできませんが

相当の忍耐力を必要とするのは既に述べた通りだが日本との結びつき「紙の音楽ホール」秋の陽はつるべ落としというが、日が暮れてもラクイラで最後にどうしても訪れたい場所があった。それはG8に参加した、当時の麻生太郎首相が二00九年四月の大地震に対して約七千万円の支援を決定し、ラクイラ市の復興支援に協力した「コンサートホール」である。そのホールは旧市街から少し離れた丘の上に、音楽院と共に建設された。建築家·坂茂氏の被災地支援ばんしげる音楽ホールの設計者は日本人建築家、坂茂さんである。彼は二〇一一年五月七日の落成式でこう述べている。

ミラノに赴任してきた際

「打楽器の小さな音が次第に盛り上がっていく”ボレロ”は、一歩一歩ひろがっていくこのブロジェクトそのものだ」ラクイラ市長は「大災害に苦しむ日本から素晴らしい贈り物をいただきうれしい。市民は誰よりも東北に寄り添っている」と挨拶した。ラクイラこの落成式の数か月前の11月11日、日本で大地震が起こるとはラクイラ市民の誰が予想しただろうか。指揮者に選ばれたのはロシア国立交響楽団(当時)の酉本智実さんであった。地元のアルフレッド·カセッラ音楽院オーケストラと共に、エンニオ·モリコーネの「ガブリエルのオーボエ」も披露され、最後は三00人のスタンディングオベーションで幕を閉じた。あるいは法王派につくかの問題であり

砦を築いたのが町の始まりとのこと

その後、ローマの属国であった、アルメニア王国やグルジアが次々とキリスト教を国教とする決断を下すのでした。そしてとうとうローマ皇帝テオドシウス1世がキリスト教を国教に定めるのでした。そして440年、ローマ司教レオ1世が、ローマ司教の首位権(教皇権)を主張する。その後、西ローマ帝国には西ゴート族が攻め入り占領。さらにゲルマン民族の大移動により476年西ローマ帝国崩壊。

その東部に位置するエリトリア

ローマ帝国には西ゴート族が攻め入り占領
また大地震のため、町の中心地であったフォロロマーノなどの破壊が始まります。そしてキリスト教を擁護しはじめた時代、流行に敏感な貴族たちが教会、修道院をつくるためにこのフォロロマーノなどの神殿や宮殿を破壊し、さらにもともと沼地に創られたこれらの遺跡。崩壊とともに土砂、がれき、ゴミで埋もれ始めるのですそして1803年、フランスのナポレオン時代に軍により発掘が始まるのでした。これが、下記の写真のトッレアルジェンティーナ(シーザーが暗殺されたところ)などが今)地上より地下に存在する理由なのです。大理石をはぎ取り、建材として使用し始めたのです。
町の発展を知る上で重要なこと

イタリアではカフェというと

(その後、私も駐車場でバックしてくる車にぶつけられる事故にあったが、軽微な事故で相手が珍しくすぐ非を認めたせいか、保険会社がテキパキと物事を処理したせいか、数日で、保険会社指定の修理工場から修理のために車を引き取りに来た。この時は余りの手際の良さにびっくりした位である。こうなってくると、やはり保険会社の選定は重要なポイントなのだろうか。ミラノのドゥオモ広場に展示されていた「セッテベロ」の車両このあたりで電車の話。車の話が続いてしまったので、と言っても知っている人は鉄道マニア以外にはいないかもしれない。

つまりグッド·イブニングと言われて最初は面食らったものです

南北の対抗意識は激しく
セッテベロ何しろイタリア人に聞いても殆ど知らないのだから。「セッテベロ」とは一九五〇年代初めから八四年までの三十年余りローマ·ミラノ間を往復していたイタリア国鉄の特急電車の愛称で、ETR三00という斬新なデザインの車両は当時世界中を驚かせたものである。私が初めて「セッテベロ」にお目にかかったのは確か小学生向けの雑誌か何かにstu載っていた写真で、当時の日本の花形列車「特急こだま」(新幹線開通际前の東京·大阪間の特急電車)も及ばぬようなデザインにびっくりした覚えがある。今思えば、私がイタリアを意識したのはこの「セッテベロ」が最初かも知れない運転席を二階に上げ、車両の先頭を展望席にすると言う発想はそれまでの常識にはなかったもので、如何にもイタリアならではの斬新なデザインだが、その設計がされたのが第二次大戦直後の荒廃からまだ回復していない一九四七、八年のことと言うから驚く。(ちなみに,”ラノ市内センピオーネ公園の中にあるデザイン美術館にも「セッテベロ」の写真が飾られている。